サルバドール・ダリは、20世紀のシュルレアリスム(超現実主義)を代表する芸術家の一人です。
現実と幻想を融合させた作品で、意識と無意識の境界を探求しました。
奇抜なファッションやパフォーマンスによっても注目され、生涯にわたって多くのメディアや大衆を魅了しました。
基本情報
名前 | サルバドール・ダリ(Salvador Domènec Felip Jacint Dalí i Domènech) |
国籍/出生地 | スペイン/フィゲラス |
誕生日 | 1904年5月11日 |
没年 | 1989年1月23日(84歳) |
運動・動向 | キュビスム、ダダイスム、シュルレアリスム |
主な作品 | 『記憶の固執(La persistència de la memòria)』 |
作品とスタイル
ダリはスペインの画家でシュルレアリスム運動の代表的な人物です。
彼の作品は、夢と現実が交錯する幻想的で不条理なイメージが特徴で、緻密な写実的技法と独特な象徴性を融合させています。
最も有名な作品の一つ「記憶の固執」(1931)は、柔らかく溶ける時計を描き、時間の流動性や現実の相対性を象徴しています。
ダリはフロイトの夢分析に影響を受け、潜在意識や無意識の世界を表現することを追求しました。
また、彼は「偏執狂的批判法」という独自の技法を開発し、視覚的錯覚や多義的なイメージを用いて観る者に深い心理的影響を与え、そのスタイルは、リアリズムと非現実性を緻密に組み合わせた超現実的なビジュアルが特徴で、しばしば動物、自然、宗教的要素、哲学的テーマを題材にしています。
ダリは絵画だけでなく、映画、彫刻、デザイン、文学、舞台芸術など多岐にわたる分野でも活躍し、自己プロモーションの達人としても知られています。
彼の作品は、挑発的かつ革新的で、視覚芸術の枠を広げたものと評価されています。
fa-check-square-oダリの名前「サルバドール」は、彼が生まれる前に亡くなった兄と同じ名前で、「救い主」を意味し、ダリ自身は兄の生まれ変わりだと信じていたと言われています。
生涯
誕生
ダリはスペインのカタルーニャ地方の町フィゲラスで生まれました。
父は公証人、無神論者、共和主義者でカタルーニャのスペインからの独立を支持したサルバドール・ダリ・クシ、母はローマカトリック教徒で息子の風変わりな行動を許していたフェリパ・ドメネク・フェレス。
サルバドール・ダリは2人目の息子で、長男は9か月前に亡くなっており、兄と同じサルバドールと名付けられ、1908年には妹のアナ・マリアが生まれました。
サルバドール・ダリは家庭ではカタルーニャ語を話していましたが、スペイン語とフランス語も学無事になります。
フェリパは敬虔なカトリック教徒で、父は無神論者でした。この組み合わせが息子の世界観に大きく影響しています。
ダリの芸術的才能は幼い頃から明らかで、両親はそれを支持していましたが、規律を重んじる父親との関係は良好でないことが知られています。最終的に、ダリの生々しい創造性と反抗的な態度は父親との距離を縮めることになりますが、それはまた、彼の想像力豊かな芸術的偉業の礎にもなります。
幼少期
芽生えつつある才能を感じたダリの父親は、息子が公立学校に向いていないことにすぐに気づき、6 歳のサルバドールを語学スクールに入学させ、後にアーティストとして使うことになる主な言語であるフランス語やスペイン語を学ばせました。
◀︎ ダリが6歳のときに描いたフィラゲス付近の風景
1910年にサルバドール・ダリによって制作された、フィゲラス付近風景の油彩作品です。
ダリの最も初期の作品の1つとして知られており、6歳のときに描いたもので、父親もサルバドールの才能を見抜くのは容易に思えます。
この作品は現在、ダリ美術館の常設コレクションの一部となっています。
画塾時代
ダリは1916年にフィゲラスの市立デッサン学校に通い、休暇は家族が夏の別荘を持っていた海岸沿いの村カダケスで過ごしました。カダケスは、ダリの両親が彼のために最初のアートスタジオを建てた場所でもあります。
カダケスで海辺の風景を描き、初期の指導者である印象派の画家ラモン・ピチョットと出会いました。
1921年初頭、ピチョット家はダリに未来派を紹介した。同年、バルセロナで書店を経営していたダリの叔父アンセルム・ドメネクは、キュピズムや現代美術に関する本や雑誌をダリに提供しました。
未来派、印象派、キュピズム、といった様々なスタイルの影響を受けていきました。
1921年2月6日、ダリの母は子宮癌で亡くなった。当時16歳のダリは、後に母の死は「人生で経験した最大の打撃だった。私は母を崇拝していた…私の魂の避けられない傷を見えなくしてくれる存在を失うことに甘んじることはできなかった」と語っています。
1922年、ダリはマドリードにある王立サン・フェルナンド美術アカデミーの学生寮レジデンスへ入学するが、 4 年後に芸術理論の試験を試験官は自分を判断する能力がないと宣言して拒否し、退学になりました。
彼は未来派、印象派、キュピズムを試行し、パリへの数回の旅行の内の1回、運動リーダーであるアンドレ・ブルトンが彼をシュルレアリスムの世界に触れさせました。
シュルレアリスム運動との確執
1928年にペンシルベニア州ピッツバーグのカーネギー研究所で行われた「パンの籠」展は、ダリの国際的な評価を高めました。この作品は現在、ダリ美術館のコレクションの一部となっています。
パンをテーマにしたサルバドール・ダリの数少ない絵画の一つで、このほかに1945年に誕生した「ブレッドバスケット」もあります。
ダリは、パンは常に私の作品におけるフェティシズムと強迫観念の最も古い主題の 1 つであり、私が最も忠実な最初で唯一の主題と述べています。
ダリは1929年、ダリは正式にシュルレアリスム運動に参加し、ルイス・ブニュエルとともに衝撃的な前衛映画『アンダルシアの犬』を制作しました。
同時期に将来の妻となるガラ(当時はシュルレアリスムの詩人ポール・エリュアールの妻)と出会い、5年後に結婚することになります。
1931年、ダリは『記憶の固執』の中で溶けていく時計を描き、時間さえも含めたすべてのものが破壊可能であることを表現し、時間の流動性や現実の相対性を象徴しました。
ダリはシュルレアリスム運動の中心人物となった後、その敵へと変貌しました。
理由は、彼の政治的態度や個人的な振る舞いが、運動の主導者たちと衝突したためです。
特に、1930年代にダリがフランシスコ・フランコやヒトラーのような独裁者に関して曖昧な発言や行動をとったことが問題視されました。シュルレアリスムのリーダーであるアンドレ・ブルトンをはじめとする多くのメンバーは、左翼的かつ反ファシズム的な立場をとっており、ダリの政治的中立や独裁者への関心を容認できませんでした。
また、ダリの商業的な成功や自己プロモーションへの執着も運動の理念と相反していると見なされました。
ブルトンはダリを「アヴィダ・ダラー」(金に飢えた人間)と呼び、彼の動機が純粋な芸術よりも金銭や名声にあると批判しました。最終的に、ダリの個性とシュルレアリスム運動の集団的な価値観の不一致が、彼の追放につながったのです。ただし、ダリ自身は「シュルレアリスムは私自身であり、誰も私を追放できない」と述べ、運動との関係を否定しませんでした。
1936年7月、スペイン内戦が始まり、ダリと妻はパリに留まり、そこで彼は芸術スタイルを進化させ続けました。彼は、1938年にダリが出会ったジークムント・フロイトの精神分析に大きく影響を受けました。1939年、アンドレ・ブルトンはダリをシュルレアリスムから完全に追放しました。
第二次世界大戦 - 古典主義
アメリカで畏敬の念を抱かせるダリと妻のガラは、第二次世界大戦から逃れた後、1940年代の大半をアメリカで過ごしました。
夫婦がアメリカに滞在した8年間、ニューヨークのMOMAギャラリーは、アーティストの最初の回顧展を開催し、彼は映画で新しい創造的表現を模索しました。
彼はアルフレッド・ヒッチコックと組んで「Spellbound」の夢のようなシーンを制作し、後にウォルト・ディズニーに雇われ、最終的に映画「Destino」となる作品の美術とストーリーボードを完成させました。
1942年、ニューヨークのダイアル・プレスはダリの創作自伝『The Secret Life of Salvador Dali』(サルバドール・ダリの秘密の生涯)を出版しました。
1948年、ダリと妻のガラはヨーロッパに戻り、翌年の1949年にダリは最初の大型宗教画「ポルト・リガトの聖母」を描きました。
その後、ダリは古典主義の時期に突入します。
彼は、宗教、歴史、科学のテーマ、つまりダリが「核神秘主義」と呼んだものを細部まで緻密に描いた大きなキャンバスを19点制作しました。彼は幾何学、DNA、神性にとりつかれ、視覚的錯覚を徹底的に実験しました。
宗教的なテーマへの愛着が高まったため、彼と彼のミューズであり生涯の恋人であるガラは、今度はカトリック教会で式を挙げます。
1941年から1970年までに、多くの宝石オブジェを制作しており、宝石で飾られた彫刻のダリ・ジョワ・コレクションの目玉である「王家の心臓」を制作しました。
実際に鼓動する心臓のように動くこの作品は、純金、46個のルビー、42個のダイヤモンド、2個のエメラルドで製作されました。
壮年期-老年期
ダリは1960年代を通じて境界を破り続け、イサベラ・カトリック大十字勲章を受賞し、故郷フィゲレスにダリ劇場美術館を建設しました。
彼は3次元や不死性に挑戦し、年齢や健康の衰えに関わらず芸術的探求を続け、ホログラフィックやステレオスコピック技法を用いて視覚的な規範に挑戦しました。さらに、ダリ美術館の開設に尽力し、回顧展が世界中で開催されるなど、著名な公人であり続けました。
1974年、スペインのフィゲラスにダリ劇場美術館がオープンしました。
1975年、ダリは最後の傑作として、20メートルでエイブラハム・リンカーンの肖像画になる「地中海を眺めるガラ(ロスコへのオマージュ)」と題する、心を揺さぶる視覚的錯覚を描きました。この作品は現在、ダリ美術館の常設コレクションの中でも最も人気のある作品の1つとなっています。
晩年、ダリは妻ガラの死後、絵を描かなくなり、不死と四次元のアイデアに魅了されました。
彼の最後の作品は、生命の可塑性に挑戦する数学的なものでした。
1984年、火災で重傷を負い車椅子生活を送り、その後フィゲレスのテアトロ・ムセオに住みました。1989年1月23日、心不全で84歳で亡くなりました。
ダリの死後
死後も、サルバドール・ダリのスター性は衰えることはありませんでした。
1990年、彼の遺産はマドリードとカタルーニャ地方に分割され、多くの著名な展覧会が世界中で開催され続けました。
モントリオール、ロンドン、スペインから東京、ヴェネツィア、アメリカまで、ダリの筆舌に尽くしがたい才能と並外れた創造性は、大胆不敵さ、インスピレーション、絶え間ない自己表現の世界共通言語となリマした。
ダリ美術館は、アンディ・ウォーホルやパブロ・ピカソをはじめとする他の著名なアーティストをフィーチャーした広大なパーマネント・コレクション、教育的プログラム、ワールドクラスの展示により、その名を冠したダリの作品と記憶を称え続けています。