フェルディナント・ホドラーの作品一覧・解説『昼 I』、『木を伐る人』

フェルディナント・ホドラーの有名(ポピュラー)な作品から、あまり知られていない作品までを厳選して紹介いたします。

昼 I

彼が確立した独自の芸術理論「並行主義(パラレリズム)」が最も明確に結実した作品のひとつです。
ホドラーは自然や人間の内面に潜む秩序や普遍性を、反復や対称によって視覚化しようとしましたが、本作はまさに「生命が目覚める瞬間」を象徴的に描いた絵画です。
画面には、薄明から光へと移行する時間帯を思わせる穏やかな色調の中で、複数の女性像が横たわり、やがて身体を起こしていく連続的な動きが描かれています。
これは単なる人物の群像ではなく、「夜から昼へ」「無意識から覚醒へ」という人間存在の根源的な変化を象徴しています。
技法面では、写実的な細部描写を意図的に排し、輪郭線を明確に保ちながら平坦な色面で人物を構成することで、彫刻的かつ象徴的な印象を生み出しています。
肌のトーンや背景のグラデーションは感情を煽るというより、静かな精神性を強調し、人物の配置は厳密なリズムを持ち、同型の身体がわずかに異なる姿勢で反復されることで、時間の流れそのものが視覚化されている点が特徴です。
この反復と秩序は、ホドラーが混沌とした近代社会の中で「普遍的真理」を絵画に求めた姿勢の表れでもあります。
《昼 I》は官能的でありながらも決して個人的な欲望に回収されず、人間の生と意識の循環を静謐に語りかけてきます。

昼 I
Date.1900

彼が象徴主義へと大きく舵を切る転換点となった代表作であり、人間の存在不安と死の恐怖を正面から可視化した衝撃的な絵画です。
画面には眠りについた男女の裸身が横一列に並び、静かな夜の安らぎを思わせる一方、その中央に黒衣の人物が忍び寄り、眠る男の胸に覆いかぶさるように描かれています。
この黒い影は具体的な人物ではなく、「死」や「悪夢」「抑圧された恐怖」といった人間の内面に潜む象徴的存在として表現されています。
ホドラー自身、若くして両親や兄弟を病で失っており、死は彼にとって抽象概念ではなく切実な体験でした。その個人的記憶が、本作では普遍的な人間の恐怖へと昇華されています。
肌の淡い明るさと背景の深い闇の対比が、眠りと死、生と無意識の境界を際立たせ、人物の反復配置による厳格な構図は、後に確立される「並行主義」の萌芽を示しており、感情的主題を秩序ある形式で包み込むことで、絵画に異様な静けさと緊張感を同時にもたらしています。

夜
Date.1889

ウェッターホーン

彼が晩年に到達した精神的風景画の完成形ともいえる作品で、アルプスの名峰を単なる自然描写ではなく、永遠性と秩序の象徴として描いています。
ホドラーは生涯にわたり山を描き続けましたが、特に1900年代以降は、自然の中に潜む普遍的構造を抽出することに関心を深めていきました。
本作の主題であるウェッターホルン山群は、彼にとって祖国スイスの精神そのものを体現する存在であり、揺るぎない形態は人間の生死を超えた永遠を暗示しています。
画面では、山体が幾何学的ともいえるほど単純化され、左右対称に近い安定した構図で据えられています。
雄大なアルプスの景観を通して、人間存在のはかなさと、それを包み込む永遠の時間を同時に感じさせる絵画であり、静けさの中に深い精神性を湛えた作品です。

ウェッターホーン
Date.1912

木を伐る人

人間の労働を通して生命の力と宇宙的秩序を可視化しようとした作品であり、象徴主義と近代絵画の境界に立つホドラー芸術の核心を示しています。
主題は日常的な伐木作業でありながら、その描かれ方は写実を超え、原初的な行為としての「働く身体」を強く印象づけます。
画面中央に立つ男は、斧を振り上げた瞬間を捉えられ、筋肉の緊張と重心の移動が全身で表現されています。
この一瞬の動作は、自然に対峙する人間の意志と、生命を維持するための根源的行為を象徴しています。
輪郭線を明確に保ちながら形態を単純化し、身体をほぼ彫刻のような量感で構成し、背景の森や地面は細部を抑えた色面にすることにより、人物の動きが際立つ構図となっています。
また、斧の軌道や身体のひねりは、ホドラーの「並行主義」に通じるリズムを内包し、反復される労働の時間性を感じさせます。
労働の瞬間を永遠の形として固定することで、人間存在の尊厳と生のエネルギーを静かに、しかし圧倒的な存在感で語りかけてくる作品なのです。

木を伐る人
Date.1910

▼スイスの50フラン紙幣に描かれた「木を伐る人」

スイスの50フラン紙幣に描かれた「木を伐る人」

シェーブルから見たジュネーヴ湖

ホドラーにとってジュネーヴ湖は生涯にわたり描き続けた主題であり、とりわけこの時期の作品では、風景は特定の場所の記録ではなく、普遍的な世界構造の象徴へと昇華されています。
前景から湖面、遠景の山並み、そして空へと水平線が幾重にも重なり、静かなリズムを生み出しています。
この厳格な水平構成は、彼が提唱した「並行主義」を風景に適用したもので、自然界に内在する秩序と永続性を視覚化する試みです。
湖の水面は揺らぎを抑えた色調で描かれ、光の反射さえも装飾的な要素として統御されており、写実的でありながら瞑想的な静けさを湛えています。
自然の雄大さを誇示するのではなく、沈黙と反復の中に世界の本質を見出そうとする絵画であり、観る者はその静かな構造に身を委ねることで、時間が停止したかのような感覚へと引き込まれていくのです。

シェーブルから見たジュネーヴ湖
Date.1904

靴屋

彼が象徴主義へ向かう以前、現実の生活と労働に強い関心を寄せていた時期の重要な作品であり、後年の作風を理解する上で欠かせない一枚です。
当時のホドラーは貧困と孤独を経験しながら職人や労働者の姿を描き、人間の尊厳を日常の中に見出そうとしていました。
本作に描かれる靴屋は、誇張や理想化を排した実直な姿で、俯いた身体や作業に集中する視線からは、静かな忍耐と生活の重みが伝わってきます。
技法面では、写実主義の影響が色濃く、質感豊かな筆致によって革や木の道具、室内の空気感が丁寧に描写されている一方、人物の姿勢や構図にはすでに秩序への意識が芽生えており、作業に没入する身体の安定したフォルムは、後に展開されるホドラー特有の構造的思考を予感させます。
茶や灰色を基調とした落ち着いた色彩のトーンが、労働の静けさと時間の蓄積を強調しています。
派手さや象徴性を前面に出す作品ではありませんが、黙々と働く一人の人間の姿を通して、生きることそのものの重さと尊厳を真摯に描き出しており、観る者はその静かな集中の世界に自然と引き込まれていくのです。

靴屋
Date.1878

ホドラーは人間の感情や自然現象を一過性の出来事としてではなく、永遠に反復される秩序として描くことを志向しており、本作では「春」という季節が若さや誕生、覚醒の象徴として扱われています。
画面には若い女性像が連なり、静かな動きの中で身体を伸ばし、目覚めへ向かう様子が描かれていますが、個々の人物は心理的に描き分けられることなく、同型の身体がわずかな変化を伴って反復されます。
これはホドラーの理論である「並行主義」に基づくもので、生命のリズムや時間の推移を構図そのものによって可視化する試みです。
色彩は柔らかく抑制され、肌の明るさと背景の穏やかな色調が調和し、感情を高揚させるというより、静かな生命の息吹を感じさせます。
自然の季節を描いた作品でありながら、実際には人間存在そのものの再生を主題とした絵画であり、観る者は反復する身体のリズムに導かれながら、生の始まりに立ち会うような感覚へと静かに引き込まれていくのです。

春
Date.1901