
ジョン・シンガー・サージェントの有名(ポピュラー)な作品から、あまり知られていない作品までを厳選して紹介いたします。
目次
マダムXの肖像
パリ社交界の名婦ヴァージニー・アメリー・アヴェーニョ・ゴートローを描いた作品で、当時のサロンで大きな論争を巻き起こした肖像画です。
サージェントは彼女の“彫像のような美”を強調するため、横顔に近いポーズと白い肌と黒いイブニングドレスの強烈な対比を構築し、光の当たる肩や腕の滑らかな質感を精緻に描いています。
特に当初は右肩のドレスのストラップが落ちた姿で展示され、挑発的すぎると批判されたため、のちにストラップを描き直すことになりました。
流れるような筆致と緻密な光の観察が融合し、服の黒の深みと肌の透明感を同時に表現しており、背景は深い茶系で抑えられ、人物が彫像のように浮かび上がる構図となっています。
当時の肖像画の伝統と大胆なモダン性を併せ持つ作品として評価されています。

Date.1883–1884
カーネーション、リリー、リリー、ローズ
イギリス・コッツウォルズでの滞在中に着想を得た作品で、夕暮れ時の僅かな光をとらえるため“マジックアワー”の数十分だけ屋外で描き進められたことで知られます。
二人の少女が紙製ランタンに火を灯す瞬間を描いた本作は、日本趣味やアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受けた装飾的構図が特徴で、白いユリと庭の花々がリズミカルに画面を満たし、繰り返しのパターンが詩的な静けさを生み出しています。
夕暮れの冷たい自然光とランタンの暖かな人工光を巧みに対比させ、肌や布地に柔らかな輝きを与えています。
光の変化に忠実であるため、短時間のセッションを何週間にもわたり重ねた点も、サージェントの観察力と卓越した色彩調整能力が凝縮された代表作となっています。

Date.1885
エル・ハレオ
スペイン旅行で目にしたフラメンコの情熱的な舞台を再構築した大作で、強烈な光と影をドラマチックに扱った点が特徴です。
サージェントは現地での素描や観察を基に、暗い舞台空間に一点だけ強く差し込む光を設定し、白いドレスの踊り手を中心に据えることで動きと緊張感を鮮明に表現しています。
背景で演奏するギタリストや観客の黒い衣装、大胆な影、反射する床などを対比的に配置し、視線が自然に中央の舞踏へ集中する構図となっています。
技法面では幅広い筆致と厚みのある絵具により、リズムの切れ味や舞台のざらついた空気まで伝わるように処理され、特に足元の光の反射や衣装の揺らぎには細心の観察が反映されています。
また、当時のヨーロッパで高まっていたオリエンタリズム的関心と、サージェントの写実的でありながら劇場的な表現力が結びついた舞台芸術的な側面が強く表れている作品です。

Date.1882
毒ガスをあびて
第一次世界大戦で毒ガス攻撃を受けた兵士たちの行軍を描いた戦争画で、帝国戦争美術館の依頼により制作された作品です。
サージェントはフランス前線で実際にガス攻撃被害を目撃し、その衝撃的な体験を基に、負傷兵が包帯で目を覆われ、互いの肩に手を置きながら列をなして歩く姿を写実的に捉えています。
満員の野戦病院や地面に倒れた兵士などが奥に描かれ、戦場の混乱と絶望が静かな構図の中に強烈に浮かび上がります。
灰色と褐色を基調とした沈んだ色彩を用い、夕暮れの光を薄く差し込ませることで絵全体に虚脱した雰囲気を与え、軍服の質感や包帯、泥の描写を丁寧に積み重ね、英雄性ではなく“戦争が身体に刻む痛みと無力さ”を視覚化しています。
人物画家として培った観察力と構図力が戦争記録画に応用された稀有な例として評価される作品です。

Date.1919
ロクノーのレディ・アグニュー
スコットランド貴族ロクノー男爵家の妻であるガートルード・ヴァーノン(後のレディ・アグニュー)を描いた肖像画です。
彼女は風邪をこじらせて体調が優れない状態で座っていたと伝えられており、その影響からか、サージェントはやや力の抜けた、しかし知的で落ち着いた表情とポーズを巧みに捉えています。
彼女は18世紀風のベルジェール(肘掛け椅子)にゆったりと腰を下ろし、白い絹のドレスにライラック色のサッシュをあしらっており、その軽やかな布地は滑らかな光の反射とともに質感豊かに描かれています。
背景には青みを帯びた中国風のシルク布が垂れ、その繊細な模様と色調が彼女の装いと調和しつつ、視線を顔に誘導する役割を果たしています。
衣服や椅子のテクスチャーを描きながら、肌や顔の部分では透明な層を重ねて深みと暖かみを出す、緻密かつ洗練されたアプローチを取っており、わずか六回のセッションでこの肖像を完成させたとされ、迅速でありながらも完成度の高い作業ぶりが評価されています。
構図はやや傾いた肩やゆるく組まれた腕など、自然なリラックス感を備えており、彼女の自信と気品、そして当時の高級社交界における存在感が見事に表現された代表作です。

Date.1892
エドワード・D・ボイトの娘たち
友人であるアメリカ人富豪エドワード・ダーリー・ボイトの4人の娘を描いた異色の集団肖像画で、ベラスケスの《ラス・メニーナス》から着想を得たとされる構図が特徴です。
パリのボイト邸の大広間を舞台に、広大な空間と暗がりが画面の多くを占め、少女たちがそれぞれ距離を置いて配置されることで、不思議な静けさと心理的緊張感が生まれています。
二人の年少の姉妹は前景の柔らかな光の中に立ち、奥の二人は暗い扉口の陰に佇むことで、年齢と成長段階の差を象徴的に示すような視覚的物語性が備わっています。
明暗の対比を大胆に用い、広い黒い影と部分的な光を通して室内の空気感を巧みに描写しています。
衣装の白と黒のサテンの質感を精密にとらえ、とくに床に置かれた巨大な日本風花瓶の硬質な光沢や、壁の深い色調などが空間の奥行きを強調しています。
通常の“家族の記念肖像”とは異なり、心理的深度と前衛性を持つ本作は、サージェントの室内描写の才能と大胆な実験精神が最もよく表れた作品の一つとして評価されています。

Date.1882
トルロニア別荘の噴水(フラスカーティ、イタリア)
この時期、彼は肖像画家としての名声から一歩退き、屋外制作(プレーンエア)に意欲的に取り組んでいました。
描かれているのは、ローマ郊外フラスカーティのトルロニア別荘の庭園にある壮麗な噴水と、そのそばで画筆を取る彼の友人である夫妻、ジェーン・エメット・デ・グリーンとウィルフリッド・デ・グリーンです。
ジェーンは白い服をまとい、スツールに足をのせてイーゼルに向かって集中しており、ウィルフリッドは肩を寄せてリラックスした姿勢で座っていることで、制作の親密でくつろいだ空気が伝わってきます。
背景には大きな噴水の水柱が強く立ち上がり、透けるような水の動きが印象的に描かれ、まわりを囲む緑や建築とも調和しています。
技法的には、明るい夏の光を捉えるために厚塗りのインパストを用いつつ、細かい筆致によって水の流れや衣服の質感を表現し、光と影、動と静のコントラストを巧みに構成しています。
また、この作品は私的な友情と創作活動を祝福するような作品であり、彼の肖像中心の仕事から、より風景や日常のスナップショットへと関心が移っていた転機を象徴するものとも言われています。

Date.1907
ポートワインのグラス(夜の晩餐会)
アメリカ外交官アルバート・ウッド夫妻をモデルに、当時パリで親交のあった社交界の夜会を描いた室内画です。
豪奢な晩餐の一瞬を切り取ることで、夫妻の関係性や社交の雰囲気を象徴的に提示しています。
ランプの温かい光が白いテーブルクロス、銀器、ワイングラスに反射し、深い赤の壁紙と相まって濃密で親密な空気を生み出しており、夫人が軽くグラスを持ち上げる所作は優雅で、緊張とくつろぎが同時に漂うような微妙な表情が描かれています。
光の反射やガラスのきらめきを巧みにとらえ、特にランプ光の表現には薄いグレーズを何層も重ねる高度な技術が使われています。
大胆な暗部の処理と、細部の光沢描写を両立させることで、19世紀後半の社交界特有の華やぎと緊張感を凝縮した作品となっています。







